工作機械の歴史 ⑨ マザックの歴史③ 201224
教育2020/12/28
工作機械の歴史 ⑨ 201224
マザックの歴史③
昭和40年不況を乗り切ると、いざなぎ景気の波に乗り、
すぐに攻めに転じる
1966年 組織改革で系列会社を統合
資本金を1億8000万円に増資
「マザック会」全国の主要市場に販売店を組織
新製品開発も活発に進める
マザック・レックス(旋盤大小25機種)
1967年 月産170~200台達成
「谷深ければ、山高し」
日本は高度経済成長の真っ只中
日本全国でありとあらゆる工業製品の生産に旋盤
が使われた
旋盤の中で最も人気が高かった中型クラスのマザック
のシェアは20%(2057台、30億円)
1968年~1971年
4年間で約24億円の設備投資
1968年 旋盤メーカーでは初めての組み立て用コンベアライン
の設置(月産300台生産可)
1970年 2つ目のコンベアラインも設置(月産450台生産可)
+専用機の開発で量産化を強化(月産470台生産)
日本では入手できない研削盤を自社作成
自作する文化は後も脈々と受け継がれた
(コンピュータ制御によるネジ研削盤、レーザー測長器)
1969年 「山崎鉄工所創業満50周年パーティー」
・金箔の化粧をした旋盤を展示
・参加者には外国人も多く、国際色豊かな催しとなった
創業50周年(後半の10年)で誰も予測できなかった
成長を遂げる→なぜたくましく生き残ってこれたか?
①海外進出マーケットを国内に限定せず、ブランド力が
低くてもはるばる海を渡って売りに行った
そこで手にした新しい技術や人脈が成長の糧になった
②オリジナリティのある新しい製品を開発し、続けたこと、
アメリカやヨーロッパの現地で自分たちの目で見てきた
ものをヒントに、常に日本にはない製品を作ろうとした
→一国の市場に依存していなかったため、不況が訪れても
なんとか乗り切り、常に新たな製品を武器にすぐに攻めに
転じた
「製品には必ずライフサイクルがある、5年先のユーザー
ニーズを読め!」by照幸→現状に満足せず、常に新しい
開発を意識
1968年 「第4回日本国際工作機械見本市」
マザックでは初めてNC旋盤を出展した
他のメーカーより低価格(コストカットを行っていたから)
☆低価格により製品が売れる→設備投資→量産体制強化→
コストカットで低価格→正のスパイラルが生まれた
「更に使いやすく、安価なNC旋盤が欲しい」
ユーザーの声が多く、NC旋盤のローコスト化を念頭におい
た特別プロジェクトが作られた
NC旋盤マザックZ形(590万円←画期的な価格)
・アメリカのバーグマスター社とのデュアルセンタの技術提携
(マシニングセンター)当時はフライスの実績なし、反対の
声もあった→以降のマザックのマシニングセンターの基本コ
ンセプトに継った
1971年 ニクソンショック
為替レートを是正
10%の輸入課徴金
ドルと金(ゴールド)の交換を停止
・アメリカとヨーロッパ、アジアの主要工業国が対等に競争す
るため
・スミソニアン協定
固定相場制1ドル360円が変動相場制に移行
・日本は輸出で大きな利益を得ることが困難になった
+大阪万博の後の反動で不景気
ニクソンショック+万博後の不景気
工作機械業界 生産額15%減(旋盤30%減)
↓
前2回の不況とは異なり、マザックには大きな打撃はなかった
(国内、国外にもマーケットを拡大しており、販路が確立されていたから)
マザックはタフな企業に成長していた!
1975年 無人化計画
・FMS計画(フレキシブルマニュファクチュアリングシステム)
・人件費が非常に上昇していた(前年比30%↑)
・人員の増加を抑えながら、生産性を高める必要
・FMSはさまざまな異なる部品の加工を段取り替えなしで、
自動的に対応出来るようになる
旋盤ガントリー、マシニングパレットチェンジャー
1981年 FMS完成
・世界初のFMSは大きな反響を与え、さまざまなメディア
(NHK、BBC、ニューヨーク・タイムズ)が取材に来た
→100億円以上の宣伝費、2万人以上の見学者が訪れた
(コーヒー代月100万)
・NC旋盤QuickTurn(クイックターン)
マザトロール搭載で誰でもプログラミング出来る
従来NC旋盤(1500~2000万)
QT(800万)と非常に安価で大人気
月産50台に1000台注文がくる
・岐阜県の美濃加茂に工場を作る計画
・ニューヨークにマザック初の海外現地法人設立
1968年・アメリカ現地の機械商社と契約を解除
・様々な不利な条件があった中で、どうしても譲れない事情が商標
当時、マザック機はアメリカでは現地商社の名前で売られていた
→マザックのモチベーションを傷つけていた
「マザック製品をMAZAKブランドで売らせて欲しい」
↓ あっさり
「No」→契約解除(マザックの力、日本製品の力を過小評価)
☆YMC(ヤマザキマシナリーコーポレーション)が誕生
・自力で営業、販売を行う、アメリカ進出の第一歩
・日本製の信頼がない状態
・何もかもが手探りのゼロスタート
↓
日本製の工作機械が優れていることを知ってもらうため、展示会
への参加、コツコツと行った販売ルート拡大のための営業活動が
予想以上に速く成果を上げる
YMC創業2年目に月間30万ドルの受注
・従来、日本国内生産→商社→海外商社→海外ユーザー
・マザック、日本国内生産→YMC→海外ユーザー
更に、アメリカ現地に工場を建てる
アメリカ生産→YMC→海外ユーザー
代理を設けず、全て自力で進出した
リスク、コストが並大抵ではない
「国内市場だけに依存していたら、景気の影響をダイレクトに受ける
時間がかかっても、輸出市場を育成して、リスクを分散する」
自分の仕事に取り入れたいこと
現状に満足せず、常に新しい開発を意識した結果、日本では入手できない
研削盤や世界初のFMSを開発し、自作する文化が受け継がれているとい
うのは、とてもすごいと思う
現状のプログラムに満足せず、コストダウンなどを常に意識しておく
苦しいときでも安売りをしない
数々の不況を乗り越えてきたマザックは本当にタフだと思った
阪本もそれに続くように、コストカット、工数削減、品質向上に努めたい
マザックのNC旋盤は他社の1/2の値段だったので、コストカットに
とても尽力していたんだと思う
マザックが1960年代から1970年代にかけて多額の設備投資をして、
生産台数を増やしていったことが分かった
マザックは過去の経験を次にうまく応用して、不況を乗り越えていること
を知った
現状に満足せず、常に新しい開発を意識というのは、なかなか難しいが、
見習いたいと思った
今現在のリスクに対して、その先にあるメリットを見据えて行動すること
振り返り・今日の学び
アメリカ現地の機械商社と契約を解除して、MAZAKブランドで世界に
進出する時代の流れを学んだ
世界初の無人化工場がマザックだということを初めて知った
MAZAKが世界初の無人化に成功したことを知った
当時の海外進出の難しさがよく分かった
日本にまだない機械を作ったり、コストカットや無人化工場など、本当に
先見の名がある人だと思った
マザックが1981年という早い段階で、世界初のFMSを達成したこと
を知り、すごい企業だったんだなと思った
当時1500万円~2000万円が一般的だったNC旋盤を、半分程度の
価格まで安く出来る量産体制を整えられるのはすごいと思った
マザックのようにオリジナルの製品があると、不況が訪れてもそれが武器
になって乗り切れるのだと思った
マザックが技術や売上だけでなく、ブランドのために海外へ進出していった
ことが分かった
昭和40年不況後のマザックの攻勢と、アメリカへの本格進出についての
歴史を学んだ