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工作機械の歴史 ⑧ マザックの歴史② 201221

教育2020/12/24

工作機械の歴史 ⑧

●マザックの歴史
「これでは日本が戦争に勝てるはずがない」
源田実の戦後初のアメリカ視察で、米国製工場の品質の高さに驚愕
源田の発言が当時の日本の工作機械業界に広まる
その頃、山崎親子は、米国製の工作機械を徹底的に研究、分析
(リビルド業によって)していた→先見の明

・朝鮮戦争の特需
1946年~1955年
      日本の工作機械は生産台数4倍に増加、金額35倍に成長
      →この機会に山崎親子は勝負に出る
1956年 名古屋熱田工場を操業
      「工作機械づくりの道場」と呼ばれる
1954年 3代目 山崎智久が誕生
1957年 通産省「金属工作機械製造業合理化基本計画」を発表
           ↓
      日本が農業国から工業国に発展するため、質の高い工作機械
      の国内生産が必須であることを国が明確化した
      大蔵省が税制の優遇を認める
      「合理化機械 初年度1/2償却、
       重要機械 3年割増償却」
      →設備投資した企業の法人税が減税
      →工作機械メーカーにとっては大商機

山崎親子は「工作機械づくりを再開」を決心
中古市場で圧倒的に不足していた横中ぐり盤、平面研磨盤を手がけようと
計画→採算コストが合わずに中止

1958年 中古市場で旋盤も不足し始める
      「旋盤ならいける!」(戦時中に実績あり)確信
1959年 旋盤の試作1号機が完成
      生産体制を整備するために資本金600万円増資
      高速精密旋盤の量産体制を築いた
      朝鮮戦争後の「岩戸景気」の後押しで、従業員150人に増
      
「投資が投資を呼ぶ」正のスパイラルが生まれ、経済成長に拍車がかかる
工作機械の特需

1955年 1万8000台 37億円   \台数7倍
1964年 13万1000台 910億円 /金額24倍
1961年 事業拡大により従業員250人/旋盤月産67台   
      初の海外輸出(インドネシアに旋盤を3台)
      丹羽郡大口町に新工場を操業
      『岩戸景気の終焉』→設備投資、従業員増員コスト高により
                苦境に立たされる
      「見通しでは最低でも1~2年は好況が続く、
        その利益で投資金額を回収できれば良い byのちの照幸」
      当時マザックは認知度(ブランド)が低かったので、受注が
      なくなるのが早かった
      「全社員で力の限りを尽くして、1台でも多くの注文を獲得
      しよう」→全国キャラバンセールス
      ライトバン、トラック(旋盤の実機を積む)
      東日本、中部日本、西日本の3チームに分けて、全国各地で
      実機によるデモンストレーションを行う
       →全国各地で徐々に成果を上げていった
      「必死の努力がようやく実りつつあり、操業に必要な受注量
       を確保できる見通しが立った(神が与えた一大試練)」
 ☆教訓「好況時に安逸な商売をしてきたことへの咎め」照幸
  全社員一丸で問題を乗り越えたことが、社員の自身の源泉になった

1962年 アメリカから旋盤200台の受注
       (アメリカ好景気、日本製で間に合わせたい)
      →条件が悪い(インチ仕様に設計変更、3割値下げ、摺動面
                     の焼入れ研磨、OEM製産)
      単価交渉せずに→30台だけ成約
      「業界初の対米輸出、大量受注に成功」
      技術面でも価格面でも問題が山積み
      何とか30台完成→「要求した製品に仕上がっていない、
                キャンセルだ!」
      再び30台作り直す
1963年 厳しい条件をようやくクリア「バンザーイ」
      「かなり早い時期に対米輸出に取り組み、井の中の蛙から抜け
      出し、技術的にも向上させてくれた意味で、有意義であった」
                            by照幸
1962年 創業者定吉逝去
      初代定吉
       投資は慎重派「鍛冶屋とできものは、大きくなると潰れる」
       が口癖
      2代目照幸
       投資に積極的
1963年4月 資本金6000万円に増額
     7月 資本金1億2000万に増額
      大口工場の生産ラインを強化するために拡張
 ☆山崎鉄工所の新しい時代の幕開け
     9月 欧米視察
        ①コストダウンの手法を徹底的に学ぶ
        ②品質管理、開発などの最新技術を吸収する
        ③海外市場のニーズを把握する
      海外からの要望は「低価格」ブランド価値が低かった
      採算が取れるようにコストダウンに挑戦
      照幸は海外進出を諦めない道を選んだ
      MAZAKブランドの誕生(海外販売向けブランド)
      YAMAZAKI 発音しにくいYAを消す
               英語表記のためIを消す
1964年 大口工場に本社社屋完成
      東京オリンピック開催
 オリンピック特需に後押しされ、急速に経済が成長する
 インフラ整備が活発になり、工作機械の需要が増えた

・昭和40年不況
 東京オリンピックが終わるとすぐ好景気の反動で不況が訪れる
1965年 山陽特殊製鋼が倒産
      (関連企業や下請け企業が連鎖して倒産)
      日工会の企業も10社倒産
      「山高ければ谷も深し」
      心理的不安も大きく、設備投資は消極的
      工作機械の需要もがくんと落ち込んだ
      マザックの受注1/3まで下がる
◎国内需要の大幅な減少を、輸出でかろうじて補っていた
 対米輸出が軌道に乗る→アメリカ以外にも営業を開始
 ノルウェー、南アフリカ、オーストラリア、ドイツ、イタリア、
 イギリス、フランス
「工作機械の後進国というハンデを抱えながらの営業」
 当時政権の地方の公共投資政策により、日本のものづくりを再び
 活性化させ、高度経済成長への軌道へと日本を戻し、工作機械業界
 も復活の兆しを見せた

      

自分の仕事に取り入れたいこと
 
 アメリカからの厳しい条件にも負けず、何度も製品を作ったのは、
 すごいと思った、見習いたいと思った
 
 今の不況も社員一丸となって乗り越えていきたい

 これから先も好景気と不景気が交互に来るので、不景気のときの
 ために力を蓄えておく。採算が取れるように、コストダウンに挑戦!

 幾度となく不景気にあっている工作機械業界でも生き残ってきた
 MAZAKを見習って、コストダウンやブランド品質を上げる

 MAZAKの米国輸出は、初めは無理を受け入れてやっとのことで達成
 できたことだと分かった。やりたい分野の仕事をもらうには、割りに合
 わないことでも受け入れる期間も必要なのかなと思った。

 マザックが大手企業になる理由が、この歴史を学んで少しわかった

 不景気や海外からの悪い条件の注文などの厳しい状況の中でも、努力し
 て成果を上げられる会社に成長させられたのはすごいと思った

 好況時で忙しくとも慣れていない仕事にも挑戦して、仕事を回せられる
 ようにしないといけないと思った

 あらゆる条件からも意義を見出すこと
 
  
 
振り返り・今日の学び

 MAZAKが好況、不況を経験し、海外に進出して行く過程を学んだ

 景気の波や、全国キャラバンセールス、対米輸出も30台キャンセル
 など、かなりの苦境があったことを知ることができた

 今は色々なものがある。ないものがないぐらいなので、新製品を作る
 のが難しい

 好景気、不景気に関わらず、日々チャレンジしていた照幸氏はすごい
 と思った

 マザックは対米輸出で苦境に立たされていたが、それを乗り越え、後
 に国内が不況になった際には、逆にそれが助けになっていた事がわか
 った。我々も苦しいときにこそ種をまき、後に芽となるような仕事を
 していきたいと思う

 マザックの事業拡大のスピードがとても速く、すごいと思った

 今では有名なMAZAKでも、ブランド力を高めるのには多くの労力
 と時間が必要だったことを知れた

 MAZAKが早くから海外輸出に乗り出しており、当初は赤字ではあ
 ったが、技術力を身につけ、国内の景気の悪くなったときは海外輸出
 によって、かろうじて乗り越えてきたことが分かった

 MAZAKの戦後の朝鮮戦争特需から東京オリンピック後の不況まで
 の歴史を学んだ